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「国籍不問の政党」という矛盾——公明党規約が示す“責任の空洞化”

ニュース

「国籍を問わない政党」は、本当に“開かれている”のか。

公明党の党規約がSNSで話題になった。
第4条に「国籍を問わず党員になれる」と明記されており、他党と比べても異例だ。
自民党も立憲民主党も「日本国籍を有する者」に限定している中で、公明党だけが国籍の枠を外している。
これは単なる事務的ルールではなく、政党の「責任の境界線」をどう描くかという政治思想の問題である。

支持者の中には「国際平和を掲げる党として当然」「多様性の象徴」と評価する声もある。
だが、批判の多くはそこではなく、“責任の所在がぼやける”点に向けられている。
誰でも入れる政党は、誰も責任を取らない政党になりかねない。

特に問題視されているのは、規約第6条。
党員には「選挙権・被選挙権」が与えられるとされているが、外国籍党員もこれに含まれる。
もちろん、公職選挙法により国政への直接立候補はできない。
しかし、党内の代表選や候補者選定には参加できる可能性がある。
つまり、「国政に間接的な影響を持つ構造」が制度上、存在するということだ。

この規約の背景には、公明党の母体・創価学会が掲げてきた「世界市民」「人類共通の価値」という思想がある。
国籍ではなく“信条”を重視する哲学だ。
だが、その普遍主義を政治制度に持ち込んだとき、民主主義の根幹——「誰が決め、誰が責任を負うか」——が揺らぐ。
政治における“開かれた門”とは、理念ではなく制度の管理責任を伴うものだからだ。

SNSで見られた「多様性」と「無防備」の混同は、現代の政治が抱える構造的問題を映している。
包摂の名のもとに、意思決定の輪郭が薄れていく。
それはリベラルでも保守でもなく、“責任を取る人間がいなくなる政治”の始まりだ。

国籍を問わない党があってもいい。
だが、国籍を問わない責任のとり方は存在しない。
「開かれた政党」であるためには、むしろ境界線を明確にする勇気が必要だ。

次にこのニュースを読むときは、「誰が参加できるか」ではなく、「誰が責任を負うか」を考えてほしい。
政党規約とは、理念のパンフレットではなく、責任の設計図なのだから。

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